「答えが1個」という “詰め込み式” の日本の教育は “悪” か!?

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前回、ちぃとばかし熱く「国語」について語りましたね。

 

 

つまり、
「だいたい学校教育で現場の教員たちが教えたがるのは『この物語をよんで君たち1人1人がどう感じたか』」だと

一方で
「入学試験みたいな場で解かなきゃいけない国語ってのは『答えが1個』」だと。

 

 

で、そろはそれとして、
「じゃあその‘1個の解’にどうたどり着くのか!?」というと、その鍵は「論理にあり」だと、前回のブログでちら~っとだけ書きました。

 

 

ノウハウだだ流しにして駿台側から訴えられたくないので詳しくは書きたくないんですが、
「このワードは、筆者が『今から私の言いたいこと書きますよ』っていう‘合図’だから、その次の一文に線引く」
とか、
そんな感じで、‘論理的な解き方マニュアル’みたいなのを教えてくれるんですね。

 

 

で、そのやり方でセンター試験みたいな‘良質な’問題を解くから成績が出るんです(僕はその有用性を理解した頃には‘時すでに遅し’だったので、体に慣れさせる間なく試験に突っ込んでいったから墜落しましたけど…)

 

 

「はぁ!? そんな‘マニュアル’あんのかよ!? なんで教えへんねん!?
もしかしたら文科省とか大学入試センターとか、生徒には教えるへん‘裏マニュアル’みたいな持ってんのか!?」
とか思われる方いらっしゃるかもしれませんね!?

 

 

もちろん‘裏マニュアル’的なモンの可能性も、ゼロとは書けませんよ! それを否定できる明確な根拠が僕にない以上はね!

 

 

ただ僕個人的にはそうは思ってなくて、どったかって書いたら「答えを1個にしぼる問題を作ろうと思ったら必然的にそういう問題の作り方・問題の解かせ方に、なってしまう」っていう… そっちの方が正しいんじゃないかと思っています。

 

 

‘そういう問題の作り方’っていうのは、要は論理的にフィルタリングかけて「これはこういうことだからこう、あれはああいうことだからあー」っていうので答えを1つにしぼっていくっていうね。

 

 

「論理」っていうのは極めて客観的で科学的だから、確かに100%とはなかなか書きにくいものの、誰が考えても同じ結論にたどり着くんですよ、基本は!

 

 

だからやっぱり、‘良質’な試験を作ろうとすればするほど、まるで‘マニュアル’が存在するかのような・裏で示しあわせたかのような問題の造りになってしまうんですね。

 

 

で…
答えを1個にしぼることに対して「良質」とかって言葉使うことは、個人的には賛否あるんじゃないかなあと思っています。 (あんまりないか…(焦))

 

 

というのも、今の日本の教育って、わりかし批判されることの方が多いじゃないですか!?

「答えは1個じゃない!!」
とか
「‘詰め込み式’はいかがなものか!?」
とか。

 

 

特に国語ってぇのは、小説なんか最たる例ですけど、
それを読んでどう感じたかとかはホンマに十人十色ですし、
だからこそ現場の教員たちが1人1人の‘思考の個性’を尊重したがるのは、当然なことだとは思います。

 

 

だけど僕は、少なくとも試験に関して、答えを1個にしぼることは、全然それでいいと思います。

 

 

理由は2つありまして…

 

 

まず1つは
その方が公平だから

 

 

前回のブログでも書きましたけど
例えばセンスとか感覚とかって、生まれもってのアレとか、あるいは「本が好きで日頃からたくさん読んでます!!!」みたいなので、人によって大きく差がでるもんだと思います。

 

 

その点‘論理的に’読んでいくってのは、もちろん才能ウンタラでカバーできる場合もありますけど、やはり読み方として特殊なものになってくると思いますし、活字が好きだろうが嫌いだろうが得点に結びつけたいんであれば相応の訓練は必要になってくるかと思います。

 

 

そして
大学入試センターの人間が読解しても、駿台のN先生が読解しても同じ結論にたどり着くってことは、
論理力
ってもんを身につければ誰でも読めるようになるということです。

 

 

これってかなり‘フェア’じゃないですか!?

 

 

だって
才能とか好き嫌いとかに関係なく、
努力した人間が報われる
ってことだから!!

 

 

コレ社会の、特に歴史なんかだとピンとくる人もいるんじゃないかと思います。

 

 

例えば三国志のあたりだとか、例えば戦国時代とか、けっこうすっ飛ばされてること多くないですか!?

 

 

やっぱりマニアがいるってことは向こうもわかってますからねえ。

 

 

マニアだろうがなんだろうが
「勉強した人間が点数をとれる」
仕組みを作りたいわけです!!

 

 

国語に話を戻せば、

「これを読んで あなたが どう思ったか!?」

なんていうのは、趣味の読書とか課外でやりゃあいいんです!

 

 

よく考えたらそうですよね!!

 

 

もちろん「読書を通じての人格の形成」みたいなんも国語やる目的には入ってるはずですし、「本は人を成長させてくれる」とかっていわれてますけど、だからって趣味でやるような読書を学校でやらせていいんですか!?

 

 

例えば僕なんか電車乗るのが趣味ですけど、
もし僕が先生になった時に「電車乗っていろんなところいけば新たな知見が得られるかもしれない」とかいって生徒をやたらめったら電車乗るのに付き合われていいわけないでしょ!?

 

 

確かに‘電車’と‘読書’で書くなら、そらあまあ読書の方が人格の成長とかではいいでしょう!!

 

 

だからって多数派の好みを学校教育に持ち込んでいいわけないでしょ!!!
「お前の趣味押し付けんな!!!」って感じ!!!

 

 

しかも、
そこまで1人1人の思考とか個性とか尊重したいんなら、「本なんか読みたないよ!!!」っていうやつの個性とか思考とかも、やはり尊重されるべきじゃないですか!?

 

 

みなさんがイチローになったとして考えてください!

 

 

本なんか読んでる暇あるんだったらその時間1本でも多くバットの素振りしたいでしょ!?
それが野球の本とかでない限り!

 

 

「1人1人のナンタラカンタラ~」とか言っときながらそれを伸ばす方法が本一択って…
その時点でもうすでに個性は踏み倒されてると思うんですが!!!

 

 

好き嫌い関係なく本読まされる訳ですよ!!

 

しかも学校という場所にぶち込まれて!!

 

そこまである種の‘強権’使ってくるわけだから、それ相応のナンかはないと!!

 

日本国民として生まれた限り、事実上強制的に読書させられるわけです。

 

であればこそ生徒1人1人を‘フェア’に取り扱う必要性があるわけです。

 

 

そりゃあ
元々得意
とか
読書好き
とかで、やる量に差がでたりするのは、そこまでは残念ながら防ぎきるのには限界があるでしょう。

 

 

だけど

「論理によって誰でも同じ答えにたどり着ける」

っていうのは、

・才能の有無とかに関係なくスタート地点をそろえたい
・そこから努力をした人間に正当な未来をあたえたい

っていう強い思いの表れだと思いますし、

勤勉と努力を尊ぶ

っていう少なくともその点は、僕は全然普通だと思いますよ!!

 

 

長くなったんで2個目の理由は次回に回しますね。

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