いじめが起こる根本的な原因

ブログ
Pocket
LINEで送る
このエントリーを Google ブックマーク に追加

前回まで、僕が経験してきたいじめ(被害者としても、加害者としても)について、体験談を書いてきました。

 

今回以降は、

それらを基に、そっから得た学びや知見などを共有できたらなと思います。

 

1発目の今回は

「なぜいじめ起こるのか」

を論じていきたく。

 

ここ、案外「何となく」で流されてるんじゃないかなあ、と思います。

 

いじめを「よくない」という議論は腐るほど聞いてきましたが、

そもそも論、なぜそんな ‘よくない’ 事がたくさん起きてしまうのでしょうか?

 

人間というのは ‘よくない’ 事を、よくないからこそしたがる生き物なのでしょうか?

 

或いは ‘よくない’ を越えざるを得ない何かがあるのでしょうか?

 

はたまた、

「いじめはよくない」

という命題そのものが嘘なのでしょうか?

 

或いは、あるいは…

 

いずれにせよ、

いじめが ‘問題’ として取り上げられる事が多い以上、

‘解決策’ を考えるんだったら、原因の分析はするべきでしょう。

 

いじめが起こってしまう仕組みについて、ろくに検証もしないまま「よくない」「よくない」という人は沢山いますが、

原因の解析なくして問題が解決するのか、甚だ疑問ですね。

 

 

人格、人間関係

 

いじめというのは、1人で成り立つものではありません。

(自分で自分を傷つける、自傷行為なるものは存在してますが、‘いじめ’ には勘定されないはずです)

 

相手がいて、初めて成立します。

 

故に、

「何がいじめになって、何がいじめにならないか」

は、

・する側/される側の人格

・する側/される側の人間関係

に大きく依存すると思います。

 

芸人の ‘いじり’ はテレビで公然と放送できるのに、

同じような事を、例えば学校で、不良が陰キャにやった場合、いじめとして問題になる場合が往々にしてある。

 

この違いを、ある人は

「信頼関係があるかどうか」

という分析の仕方をしてました。

 

芸人のいじりが信頼関係で成り立ってるかどうかは分りませんが、

少なくとも僕は、学校の陽キャ陰キャの関係が信頼関係で成り立ってる、なんて例は知らないです。

 

「あいつやから俺はいじられたってんねん」

なんていう陰キャラいないでしょ!?

 

もう1つ

 

僕の実体験で、よくよく考えたら疑問なのが、

同じような事されたにも関わらず、その後の経過が全く違うものになった、という事。

 

具体的に書くと、

幼稚園の時のY君の話と、

中学の時のヤの話。

 

詳しい話はリンクに飛んで貰えれば分りますが、

幼稚園➡️https://wp.me/p95X7b-hK

中学➡️https://wp.me/s95X7b-ijime

どっちも似たような事やられてる訳ですよ。

(公衆の面前で泣かされる、とか…)

 

なのに

Y君とは小学校では比較的うまくやれたのに、

ヤとは、そうはいきませんでした。

 

もっと書くと、

公衆の面前で僕を殴ったヤよりも、

そこまではしなかったヒの方をより僕は恨んでます。

 

やってる事は似かよってるのに、Y君とヤとで、どうしてそこまで僕の感情が違うのか?

 

派手に僕を攻撃してきたヤよりも、一見そこまでとおぼしきヒを、僕がより恨むのはなぜか?

 

時間の問題(幼稚園か中学か)とか

態様の問題(ヤは1回こっきり、ヒは何回も)とか

あるかもしれませんが、

より決定的なのは

自分の人格

相手の人格

そしてそれらからくる自分と相手の ‘合う/合わない’

だろうと思っています。

 

幼稚園の時に僕を泣かしたY君は、言って根は悪い奴じゃなかった。

 

だから小学校を通じて比較的うまくやっていけた。

 

中学の時に僕を殴ったヤは、確かに悪は悪なんですが、

人の心を傷つける事そのものよりも、「自分は強いんだぞ」って事を示したい、ってのが行動理由。

 

単純といえば単純な奴です。

 

に対して中学で最も僕を苦しめたヒは、

表向きは制服を着てきて ‘普通の子’ の要素を持ちながら、

ヤ達と仲よくする事で「俺の後ろにはワルがいるぞ」という無言の脅しをかけ、それを背景に人を傷つける事に喜びを感じる

 

・まとってる雰囲気

・やってる行動

共に下劣で穢れた奴なんです。

 

…っていう僕の感情があって、

その ‘感情’ っていうのが、行為の内容や態様を、何倍にも増幅させたり0にしたりする。

 

それはいじめる側にも言えるだろうし、

僕じゃない、別の人がいじめられてたら、加害者が同じだったとしても違った結果になったでしょう。

 

事実としてどんな事されたのか、っていうのは、確かに大事な要素ではありますが、

それがいじめになるかならないかは、最後の最後は当人たちの腹しだいです。

 

 

人を見下したい願望

 

どうも人間には邪念があるようです。

 

それは

「あいつなんかより俺の方が上だ」

という、

人を見下す気持ち

或いは

見下したい願望

 

金持ちで綺麗な服を着飾ってる人は薄汚い貧乏人をばかにするし、

高学歴は低学歴をばかにするし、

努力家は怠け者に対して冷たいし、

健常者は障害者をばかにするし、

まじめに一生懸命に働いてる人達はニートや生活保護受給者に冷たい。

 

‘自分と同じレベル’ に達してない人間を見かけた場合、

「見下す」という事態が一定の割合で起こるようですね。

 

例外も沢山ありますが、

表現のよしあしは置いといて、純粋に傾向論としてはこれらは言えると思います。

 

やっぱり皆、自分のことが大事なんでしょう。

 

それを確認するのに、自分より劣等な人間と比較して、

「こんな奴よりも俺の方が優秀で尊いんだぞ」

っていえるのが理論的にも確実ですし、手段としても取りやすいことを直感的に知ってるんでしょう。

 

これ、例えば

「努力しなかった奴が冷遇されるのは仕方ない」

「いじめとは別だ」

って風に、

「この冷遇はよくて、あの見下しはだめ」

みたいに、見下しの中身によって線引きする人いますね。

 

勿論そういう考え方も可能なんだが、

でも、見方によっては

「いじめられる側が、いじめを回避する努力をしていない」からいじめられる

とも考えれるじゃないですか!

 

つまり

「こういう人間はこうなっても仕方ない」

というのは、考え方次第でどうとでも転ぶ訳です。

 

実際、いじめの現場でも

「怠けた人間だからこうなっても仕方ない」

理論を、その現場風にアレンジした理屈が用いられてたりします。

 

激務の末に年収1千万達成した人々が、引きこもりニートの生活保護の為に税金を70%納めろといわれて、それか快く引き受けられる

位の寛容性ある社会でない限り、いじめがなくなるというのは構造上無理でしょうな。

もう1つ書いておきたいのは、

「自分を大切にするという事は相手も大切にする」

「人をいじめる人間は、自分自身も傷つけてる」

という理論についてです。

 

この理論、もちろん全て間違いではないでしょう。

 

ただ、

「自分の大切さを、自分より劣る人との比較で再確認する」

という僕の見立てからすると、少なくとも

「人をいじめる人間は、自分自身も傷つける」

という理屈は成り立たなくなります。

 

寧ろ

「自分を大事にする人間ほど、人を傷つける」

という命題が正という事になりますね。

 

「自分を大切にするという事は、人も大切にする」

という命題についても、

 

もし、この命題の全てが正しいなら、

例えば「周囲を蹴落として出世する会社員」は存在しえない事になります。

 

人を蹴落とす(=人を大切にしない)

人間が

出世(=自分を大切にする)

という結果なんて手に入らないでしょう!!?

 

「人を蹴落とす会社員ほど、自らの出世から遠ざかる」

が成立しない限り

「自分を大切にするという事は人も大切にする」

という命題だけで人を計るのは困難といえるでしょう。

 

いずれにせよ、いじめ問題を

「よくない」「解決すべき」

と本気で思うなら、

自分を大切にする=人を犠牲にする

という公式が、現実世界でまかり通ってる事態を直視しなければならないですし、

 

「綺麗事を述べれば世界はよくなる」

と考え、

「人間の実相」という ‘臭い物’ に蓋をしてしまってる

という現実を認識し、思考回路を修正するべきでしょう。

 

いい人を演じたいだけなら綺麗事をほざいとけばいいですけどね。

 

 

集団を乱す

 

学校にしろ職場にしろ、

いじめが起こる環境は、集団行動が求められる環境です。

 

ここで書く「集団」というのは、

単なる人の集まりでなく

集まった人達が1つの物事に向かって進むという特質を持っています。

 

そして、いじめが起こる場合、その対象となるのは大概

集団に遅れをとる奴

です。

 

障害者とか、仕事ができない奴とか…

 

よくよく考えると、

こういう場面で発生するいじめは、かなり ‘合理的’ である、という事に気づかされたりします。

 

1人、足手まといがいただけで、チーム全体が沈没する恐れがあるからです。

 

運動会のリレーで極端に足の遅い奴がいたら、それだけでそのチームは最下位になるかもしれない。

 

会社に仕事のできない奴がいたら、できる奴がそれをカバーしないと会社が潰れるかっしれない。

 

勝負の世界、生存競争の世界では、自分が100%の力を出すだけでも大変です。

 

なのに、できの悪い奴がいると、周りの奴らが120%とか130%とか力をださなきゃいけなくなる。

 

チームの生存の為には仕方ないかもしれないけど、

そうすると今度、自分がオーバーヒートで故障するかもしれないでしょ。

 

どっちにしたって、そんな弱い奴のこと尊重してる場合じゃないでしょ。

 

これ、人類社会だからいじめで ‘済んで’ ますけど、

自然界だったら即、命直結しますよ。

 

僕が見たある自然番組では、

あるチータの親子が取り上げられてました。

 

3匹ぐらい子供がいたんですけど、

その内1匹が足を怪我して、歩く速さが極度に遅くなったんです。

 

最初は母親も、他の子供達に追い付くようにその子をサポートしてました。

 

けど、途中でそれが「叶わない」と判断し、

最終その子を置き去りにしました。

 

その時点でその子チータの運命は確定ですよね。

 

「死」あるのみ

です。

 

アフリカの厳しい自然の中では、チータは外敵から身を守る為に、そして餌にありつく為に日々移動しなければならないんです。

 

怪我した子チータを大事にしたい気持ちはあるんでしょうが、

それで移動のペースが遅れると、

 

健康な子供まで外敵に襲われる危険性が増すかもしれない

 

狩りの機会を逃して健康な子供まで餓死するかもしれない

 

足手まといは容赦なく切っていかないと周りの奴らまで全滅の危険性がある訳です。

 

人類社会では、

出来損ないがチームにいたところで、確かにすぐにそのチームの生死に直結する訳ではありません。

 

でも、学校にしろ会社にしろ、チームに課される出力は一定です。

 

「足手まといがいたから」

という理由で完成度が下がるのは許されないのです。

 

一方では出遅れる奴のフォローをしなきゃいけない

 

他方では求められる生産性は変わらない

 

その圧力の板挟みになった時、

足手まといに対して「こいつさえいなければ」という感情に、なってもおかしくないと思います。

 

自分達と同じ位の力を発揮してもらうか、

できなかったらチームから去ってもらわないと、いずれはチーム全体が困る結果になるんです。

 

だからこそ、そのどちらかを達成する為にいじめというのを起こすんです。

 

論者のいうように、足手まといだからってぞんざいに扱っていい訳ない事は、頭では分るんです。

 

しかし、いじめに対する批判を聞くと、

「チームとしての結果を出さなきゃいけない」

という点が余りにも見落とされてる気がしてなりません。

 

これじゃあ理想論の通りには、現場は動けないですよ。

 

 

集団

 

「数は力」

という言葉がありますが、

これは正に言い当てられた言葉だなあ、という風に思います。

 

1vs100で戦う場合を考えて下さい。

 

100が蟻クラスに弱いか、

1人が「座頭市」か「暴れん坊将軍」級に強くない限り、

どっちが勝つか、数学的に一目瞭然です。

 

そして「数は力」は、いじめの世界でも例外ではありません。

 

僕の経験で書くと、

 

中1の時の僕の大敵のヒ

中2の時に僕とダチ達で家の封鎖を企んだったM君

 

僕はどっちも嫌ってました。

 

というか、

M君の比じゃない程にヒを憎んでました。

(今もですけど)

 

なのに僕がいじめに加担できたのはM君の方。

 

攻撃が可能だった理由は、単純に同盟が沢山いたから。ってだけ。

 

ヒは、背後に不良どもを見方につけてたし、

僕側の人間は僕だけだったから、

戦ったところで負けるだけでした。

 

この経験から分る事として

 

人に対して負の感情を持つという事は、いじめへと繋がるきっかけにはなり得ます。

 

だけと、それがいじめまで発展できるかどうかの鍵は

「一緒にそいつを攻撃してくれる仲間がいるかどうか」

という事。

 

仲間がいなければ、そいつへの攻撃は叶わず、泣き寝入り位しか道は残されていないのです。

 

 

終りに

 

今回の、いじめが起こる原因の分析ですが、

かなり踏み込んだ内容にした積りです。

 

読む人が読んだら、いじめを擁護してるかの様にも見えたかもしれません。

 

勘違いしないで頂きたいのは、

いじめはよくないという認識は、僕も共有してます。

 

ただ、

僕自身が経験したり、経験せずとも見聞きした内容を精査するに、

いじめの起こる原因というか、システムを、綺麗ごと抜きに直視すべきと思うようになりました。

 

‘現場’ を経験した僕からすると、

理想論者たちのいう綺麗事が、机上の空論に聞こえてならなかったからです。

 

それこそ

3.11の震災の時に、福島原発に意味不明な命令を出し続けた東電の本店が如く。

 

もちろん理想は忘れてはいけませんが、

理想を理想の通りには実現できない現場の切実な事情に蓋をしないで頂きたいのです。

 

いじめが起こってしまうシステムは、理想論者からすれば受け入れ難いものかもしれません。

 

でも、そこを直視し、対策を考える事が、「よくない」「こうすべき」っていう理想論を唱えるより、何百倍も問題の解決に近づく様な気がしてならないのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました