いじめが起こる根本的な原因

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前回まで、僕が経験してきたいじめ(被害者としても、加害者としても)について、体験談を書いてきました。

 

今回以降は、

それらを基に、そっから得た学びや知見などを共有できたらなと思います。

 

1発目の今回は

「なぜいじめ起こるのか」

を論じていきたく。

 

ここ、案外「何となく」で流されてるんじゃないかなあ、と思います。

 

いじめを「よくない」という議論は腐るほど聞いてきましたが、

そもそも論、なぜそんな ‘よくない’ 事がたくさん起きてしまうのでしょうか?

 

人間というのは ‘よくない’ 事を、よくないからこそしたがる生き物なのでしょうか?

 

或いは ‘よくない’ を越えざるを得ない何かがあるのでしょうか?

 

はたまた、

「いじめはよくない」

という命題そのものが嘘なのでしょうか?

 

或いは、あるいは…

 

いずれにせよ、

いじめが ‘問題’ として取り上げられる事が多い以上、

‘解決策’ を考えるんだったら、原因の分析はするべきでしょう。

 

いじめが起こってしまう仕組みについて、ろくに検証もしないまま「よくない」「よくない」という人は沢山いますが、

原因の解析なくして問題が解決するのか、甚だ疑問ですね。

 

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人格、人間関係

 

いじめというのは、1人で成り立つものではありません。

(自分で自分を傷つける、自傷行為なるものは存在してますが、‘いじめ’ には勘定されないはずです)

 

相手がいて、初めて成立します。

 

故に、

「何がいじめになって、何がいじめにならないか」

は、

・する側/される側の人格

・する側/される側の人間関係

に大きく依存すると思います。

 

芸人の ‘いじり’ はテレビで公然と放送できるのに、

同じような事を、例えば学校で、不良が陰キャにやった場合、いじめとして問題になる場合が往々にしてある。

 

この違いを、ある人は

「信頼関係があるかどうか」

という分析の仕方をしてました。

 

芸人のいじりが信頼関係で成り立ってるかどうかは分りませんが、

少なくとも僕は、学校の陽キャ陰キャの関係が信頼関係で成り立ってる、なんて例は知らないです。

 

「あいつやから俺はいじられたってんねん」

なんていう陰キャラいないでしょ!?

 

もう1つ

 

僕の実体験で、よくよく考えたら疑問なのが、

同じような事されたにも関わらず、その後の経過が全く違うものになった、という事。

 

具体的に書くと、

幼稚園の時のY君の話と、

中学の時のヤの話。

 

詳しい話はリンクに飛んで貰えれば分りますが、

幼稚園➡️https://wp.me/p95X7b-hK

中学➡️https://wp.me/s95X7b-ijime

どっちも似たような事やられてる訳ですよ。

(公衆の面前で泣かされる、とか…)

 

なのに

Y君とは小学校では比較的うまくやれたのに、

ヤとは、そうはいきませんでした。

 

もっと書くと、

公衆の面前で僕を殴ったヤよりも、

そこまではしなかったヒの方をより僕は恨んでます。

 

やってる事は似かよってるのに、Y君とヤとで、どうしてそこまで僕の感情が違うのか?

 

派手に僕を攻撃してきたヤよりも、一見そこまでとおぼしきヒを、僕がより恨むのはなぜか?

 

時間の問題(幼稚園か中学か)とか

態様の問題(ヤは1回こっきり、ヒは何回も)とか

あるかもしれませんが、

より決定的なのは

自分の人格

相手の人格

そしてそれらからくる自分と相手の ‘合う/合わない’

だろうと思っています。

 

幼稚園の時に僕を泣かしたY君は、言って根は悪い奴じゃなかった。

 

だから小学校を通じて比較的うまくやっていけた。

 

中学の時に僕を殴ったヤは、確かに悪は悪なんですが、

人の心を傷つける事そのものよりも、「自分は強いんだぞ」って事を示したい、ってのが行動理由。

 

単純といえば単純な奴です。

 

に対して中学で最も僕を苦しめたヒは、

表向きは制服を着てきて ‘普通の子’ の要素を持ちながら、

ヤ達と仲よくする事で「俺の後ろにはワルがいるぞ」という無言の脅しをかけ、それを背景に人を傷つける事に喜びを感じる

 

・まとってる雰囲気

・やってる行動

共に下劣で穢れた奴なんです。

 

…っていう僕の感情があって、

その ‘感情’ っていうのが、行為の内容や態様を、何倍にも増幅させたり0にしたりする。

 

それはいじめる側にも言えるだろうし、

僕じゃない、別の人がいじめられてたら、加害者が同じだったとしても違った結果になったでしょう。

 

事実としてどんな事されたのか、っていうのは、確かに大事な要素ではありますが、

それがいじめになるかならないかは、最後の最後は当人たちの腹しだいです。

 

人を見下したい願望

 

どうも人間には邪念があるようです。

 

それは

「あいつなんかより俺の方が上だ」

という、

人を見下す気持ち

或いは

見下したい願望

 

金持ちで綺麗な服を着飾ってる人は薄汚い貧乏人をばかにするし、

高学歴は低学歴をばかにするし、

努力家は怠け者に対して冷たいし、

健常者は障害者をばかにするし、

まじめに一生懸命に働いてる人達はニートや生活保護受給者に冷たい。

 

‘自分と同じレベル’ に達してない人間を見かけた場合、

「見下す」という事態が一定の割合で起こるようですね。

 

例外も沢山ありますが、

表現のよしあしは置いといて、純粋に傾向論としてはこれらは言えると思います。

 

やっぱり皆、自分のことが大事なんでしょう。

 

それを確認するのに、自分より劣等な人間と比較して、

「こんな奴よりも俺の方が優秀で尊いんだぞ」

っていえるのが理論的にも確実ですし、手段としても取りやすいことを直感的に知ってるんでしょう。

 

これ、例えば

「努力しなかった奴が冷遇されるのは仕方ない」

「いじめとは別だ」

って風に、

「この冷遇はよくて、あの見下しはだめ」

みたいに、見下しの中身によって線引きする人いますね。

 

勿論そういう考え方も可能なんだが、

でも、見方によっては

「いじめられる側が、いじめを回避する努力をしていない」からいじめられる

とも考えれるじゃないですか!

 

つまり

「こういう人間はこうなっても仕方ない」

というのは、考え方次第でどうとでも転ぶ訳です。

 

実際、いじめの現場でも

「怠けた人間だからこうなっても仕方ない」

理論を、その現場風にアレンジした理屈が用いられてたりします。

 

激務の末に年収1千万達成した人々が、引きこもりニートの生活保護の為に税金を70%納めろといわれて、それか快く引き受けられる

位の寛容性ある社会でない限り、いじめがなくなるというのは構造上無理でしょうな。

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