なぜ「危険なだけ」では罪にできないのか? 明確性の原則と法律の限界

交通事故

 

我々にとって1番身近な犯罪じゃないでしょうか!?

 

交通事故で話題になるのが、

加害者の罪が軽い!

 

ちゃんと運転してるんならまだしも、

携帯を弄ってるだの、イキって速度だしまくったり…

 

倫理に欠ける運転してても、びっくりするぐらい罪が軽かったりします。

 

交通事故じゃなくても、性犯罪やら詐欺やらで、

「なぜこんなに罪が軽いのか!?」っていうのって結構あるんですね。

 

厳罰に!っていう声も沢山ですが、

にしては一向に罪が重くなりません。

 

よって「司法は加害者に甘い!」とよくいわれます。

 

検察や裁判官が甘くしてるのも、中にはあるんでしょうが、

きつくしたくてもできないのです!

 

なぜきつくできないのでしょうか?

 

そこには刑罰の法律の深~い理由が、幾つかあるのです。

 

法律についての関連記事です。

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【裁判には勝ったのに…】損害賠償が、支払われない…!

刑法は犯罪被害者を守らない! 加害者ばかり擁護されるのはしょうがない…

 

 

 

零か百か

 

「明確性の原則」といいますが、

刑罰の法律は明確でなければなりません。

 

「まあ、そらそうでしょ…」としかならないかもしれませんが、

この明確さというのが奥深いのです。

 

 

1.1は罪じゃない

 

明確性の原則の1つとして、

刑罰の法律はと~っても零百思考です。

 

1=犯罪

とすると、1.1はもう罪じゃないんですね。

 

運転でよくあるのが、煽りですね。

 

改正されたので、現在は煽りでも危険運転致死傷になりますが、

古くは煽りは’危険運転’じゃなかったんです。

 

できたばっかの危険運転致死傷がどうだったか知りませんが、

・アルコール又は薬物

・進行制御が難しい

とかぐらいしかなかったかと。

 

そうすると、どれだけ煽りが危なかったとしても’危険運転’じゃなかったんです。

 

常識では危ないし、危険運転で罰しろよ!っていう気持ちはそうですが、

法律に「煽り=危険」となければ、’危険運転’にはできないのです。

 

検察も裁判も頑張りはしますが、

法律がそうなっちゃってるので、なかなか…

 

ですが民法とかであれば、法律に1ってあっても、1.1とか1.2でもいいよ!ってなってるんです。

 

この差はどっからくるんでしょうか?

 

民事っていうのは、お互いが納得すればいいんです。

 

ですから法律に柔軟さをもたせているのです。

 

では刑罰はどうでしょうか?

 

刑法は犯罪被害者を守らない! 加害者ばかり擁護されるのはしょうがない…

でも似た旨を述べましたが、

法律では刑罰は、勧善懲悪ではないのです。

 

国家権力が、己に都合のいい社会を築く。

 

そして都合のよくない輩を刑罰を用いて痛付けたり排除したりする。

 

法律で刑罰といったら、国家権力にとっての鞭なんですね!

飴と鞭でいえば。

 

そこで、曖昧を許してしまうと、国家権力が「こっちも罪」「あっちも罪」っていって、

民衆の権利や自由をどんどん制約できてしまうんです。

 

国家権力を暴走させてはならない!

 

だから1が1.1になった途端に「罪じゃないから国家権力は裁けませんよ!」っていって、

民衆の自由を守ってるのです。

 

 

常識も 法律なければ 罪じゃない

 

刑罰の法律の零か百かは、1が1.1になったらだめ!だけではありません。

 

常識だったら罪だろうっていうのがあったとしても、

条文がない、法律がないと罪にできません。

 

危険運転致死傷ができる契機となったといわれてるのが、東名高速飲酒運転事故と小池大橋飲酒運転事故。

 

東名では、加害した運転手は、立ってらんないぐらいデロンデロンに酔ってたそうです。

 

小池のは、無免だったそうで、検問に捕まったあげく逃げるのに百kmぐらいの速度だったそうです。

 

どっちも「こういうのを危険というのだ!」っていう、標本みたいな運転ですが、

危険運転致死傷だけでなく、自動車運転過失致死傷すらなかったもんですから、

業務上過失致死傷で裁くのがやっとだったんです!

(道交法とかでも裁かれましたが)

 

常識ではどれだけ危なかろうが、

「危険運転とは、こうだっ!」っていうのが、法律にも条文にもなければ、

酩酊してようがアウトバーンみたくぶっとばしていようが、’危ない’とはできないのです!

法律では。

 

こうなっちゃってる理由は、「1.1は罪じゃない」で述べたのと一緒です。

 

国家権力に好き勝手させたくないからです。

 

法律にも条文にもないのを、「あっちも危ない! こっちも危ない!」とできてしまうと、

危なくもないのを「わしが危ないといったら危ないんじゃ!」とできてしまうんです。

 

どれを罪とするかはそこでの国家権力の腹1つ!

となっては、権力が刑罰によって民衆の権利や自由を抑圧できてしまいます。

 

「法律になければ罪じゃない」として、

権力の好き放題させなくしてるのです。

 

 

‘公坊さん’はいない

 

時代劇をみてると、暴れん坊将軍の徳田さんとか、遠山の金さんとか忠相さんとか、

悪を懲らしめてくれる正義のお侍さんがいますが、

 

法律はそういう侍は想定してません。

 

「そういうの侍がいれば法律なんていらないじゃん!」

 

法律はそう考えます。

 

庶民としては義の侍を望みたいのですが、

権力が民草を救ってくれるかは不明ですよね!?

 

ていうか、現在の日本で己を犠牲にしてでも庶民に尽くしてくれる人はいるでしょうか!?

 

まあ、いるのかもしれませんが、

望めないでしょう。

 

誠実じゃなかったり、私利私欲にいったりが殆どでしょう!?

 

どうせ庶民に尽くしてくれやしないんだったら、

裁量で好き放題やられるより法律で雁字搦めにするのがまだましです。

 

 

隕石がふってくるぐらいに

 

加害を裁こうとすると権力が暴走するかも…

権力を抑えようとすると加害を裁けない…

 

法律が被害者を救う構造に、必ずしもなってないんです。

 

国権という第3者がデカすぎるんですね。

 

国権を制しつつ、加害を罰する。

 

ちゃんとこうするにはどうすればいいか、私には不明ですが、

現在の法律の構造からすれば、びっくりする変化になるでしょう。

 

恐竜を滅ぼす隕石がおちてくるぐらいにデカい変化…

かもしれませんね。

 

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