「死ぬ折の後悔 十選」とかでありかちなのが、
「挑戦しなかった」
そういうの読むと、「挑戦すべきかなあ」と思ってしまいます。
ですが、世の中では’挑戦の美’ばかり強調されすぎでは!?と疑っています。
挑戦した悔いというのもあるんじゃないかと。
前回は高校でサッカー仮入部した悔いを述べました。
挑戦しなかった事を後悔するというけども… 挑戦してしまった後悔もあるんじゃないですか!?
今回は防衛大学校の入校辞退です。
入校辞退までのワチャワチャについては、以下記事で述べていますので、
ここでは割愛します。
人間関係の悪化
色んな人との関係が気まずくなりました。
親とは暫くぎくしゃくしましたね。
私が行けなかった説明会にも行ってくれたり、
卒業すれば職は安泰、而もエリート筋!
期待はデカかったでしょう。
加えて、防大に入ると住民票を防大に移さなきゃいけませんし、扶養も外れます。
学生手当が額面で月約11万、支給されるので。
でも辞めるとなると再度住民票を移したり、扶養に入ります。
殊、扶養を抜けたり入ったりを短く繰返すのですから、会社でも目立ったでしょう。
親にとっては心も物理の労力でも、ほんとに辛かったでしょう。
高校の教師との関係もありました。
高校は卒業してしまえば終りではありますが、
浪人しても調査書を取りにいったりで、訪ねたりはしました。
そこでばったり会ったりすると、「なぜ防大辞めた!?」と尋ねた教師はいました。
でも述べましたが、擦違いざまに説明できたものではないので、濁すよりなく…
同級生とかは、彼ら彼女らには彼ら彼女らの進路がありましたし、私が辞めたからって彼ら彼女らに不利や害はなかったので、寛容ではありました。
ですが応援してくれてたのもあり、私が気まずかったです。
再び失敗するかも
失敗を学習してしまうと、
どうせ今度もだめじゃないか!?とか、
再び失敗したらどうしよう!?とか、
怯えたり萎縮したり、ってのはありますね。
こうしたら失敗するってのを学べたからいいじゃないか!とか、
次うまくいけばいいんだ!とか、
成功するまで諦めない!とか、
肯定できればいいんですが、
人によってはすんなり肯定できない人もいるんですね。
そういう人にとっては、やってしまった後悔がズルズルなっちゃうというか…
信用をなくす。応援してくれない
防大に受かった私は、はっきりいって調子に乗ってたんですね。
なのに4日で入校辞退したもんだから、親なんかは「どうせこいつは…」って思ったでしょう。
そうなってしまうと、「どうせこいつ再び失敗するんでしょ!?」とか
「すぐ諦めるんでしょ!?」とかなって、信用なくしていきますよね。
再び挑戦しようとしても、応援してくれなくなるでしょう。
私ではありませんが、
起業しました→諦めました→再び起業するから、
資金を!
人脈を!
っていっても、「どうせあんたは…」ってなるでしょうよ。
純粋な経営とかだけじゃない視点でね。
金蔓
防大の入校辞退とは関わりありませんが、
挑戦しよう!っていうのが、金蔓にされてたりもしますね。
挑戦しよう!とかいって、
マルチに勧誘したり、
プログラミング学校に勧誘したり、
投資商材を売られたり…
マルチだのプログラミングだの投資だのがどうこうではないんですが、
美辞麗句に誘われて→やりだして→
でもいつからか、うまくいかなくなって、→辞めてしまって→金と時間と労力が水の泡。
自信もなくして挑戦できなくなってしまう…
ていうのもあるんじゃないでしょうか!?
そういうのも慮ると、「そんなの気にするな!」
「挑戦しろ!」「挑戦しろ!」とは…、躊躇いますよね…
挑戦は大切だが…
前記事
「挑戦しなかった事を後悔するというけども… 挑戦してしまった後悔もあるんじゃないですか!?」
でも述べましたが、だからといって挑戦がだめだ!とかではございません。
ですが、挑戦が美化されすぎてるというかで、
やってしまった悔いが蔑ろにされてるのでは!?と疑っています。
挑戦した悔いがもっと注目されてもいいと私は存じますが、
読者さんはどう思われるでしょうか?
コメントでお教え賜れれば幸です!

