日本の ‘詰め込み式’ 教育は、実は素晴らしい!?

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前回から国語を通して「答えを1個に絞る日本の教育スタイル」について ‘熱く’ 語ってるんですけども、
例えばセンター試験なんかで答えを1個に絞るのは悪くないと考えてますよと、
読書なんて本来それ読んでどう考えるかなんて1人1人の自主性の問題だし、それを尊重するべきだと思ってる人多いんじゃないかなあという中でと、
いうことを書きました。

 

 

理由として「2つありますよ」と書いて、前回は公平性ついて書きました。

 

 

つうことで今回は募集が考えるもう1コの理由について書きたいと思います。

 

 

本来1人1人によって答えがちがうはずの読書・国語。

 

 

その解を、しかし試験の時にあえて1個に絞っていいと考える理由。

 

 

2つ目は、

「社会に共通のフォーマットを作ることで人々の利便性が向上する」

です!!!

 

 

昔話ですけど、
明治の初めに、旧薩摩藩士で陸軍軍人の大山巌と、旧会津藩家老の娘の山川捨松がデートした時に、薩摩弁と会津弁がお互い全く通じなかったと、
当時にしては珍しくお互い英語が使えたので、英語でデートしたと、
いう逸話があるんですけど、

 

 

昔々の村落中心社会で、だいたいの人間は死ぬまで生まれた村で一生過ごします! っていう社会を前提にしてんなら話は別ですが、
今みたいに、それこそ毎朝の通勤ですら何10㎞って移動しますみたいな社会では、「自分たちの生活圏の外の人とは全く意志疎通できません!!」、「見知った人でないと話通じません!!」じゃあ困るんですね!!!

 

 

だからこそ明治期に各方言とは別に ‘共通語’ なるものを制定したわけですし、今日まで日本国は国語、特に現代文という形で共通の意志疎通のフォーマットを教え込ませてるわけです。

 

 

で、これなんですけど、
確かに当時の国家がそんなことしたのはあくまで国家の利益を第1に考えてのことですよ!

 

 

なにせ日本中から優秀な人材を集めてきて官僚やら軍人やら労働者やらを養成する必要がありましたからね。

 

 

例えば軍隊考えた時に、1つの部隊に命令するのに
薩摩弁で命令、会津弁で命令
なんてやってらんないでしょ。

 

 

…ていう、まあ、元々は元々ですけど、
これ別に僕ら一般人にとってもメリット大きいと思います。

 

 

‘一律の教育’ がおこる前と後で比較してほしいんですけど、後の方がより人々が自由になってませんか!?

 

 

僕は後の方が人々がより自由になってると思います。

 

 

そしてその原因は
情報の受け取りやすさ
とと
移動のしやすさ
が ‘一律の教育’ によって飛躍的に向上したからだと考えています。

 

 

いくらネットが発達しようがメディアが発達しようが、極端な例かもしれないですけど、明治期みたいに「鹿児島と福島で全く話が通じません」じゃあ困るわけです。

 

 

せっかく堀江貴文がいいこと言ってたって「 ‘彼のしゃべる’ 日本語がわかりません!」ではやってらんないでしょ!?

 

 

「自分の都道府県とちがう人たちの話聞こうと思ったらその都道府県の言葉を勉強しなきゃなんない」って状態なら
「一体どれだけの ‘マルチリンガル’ を要求すんねん!?」
て話じゃないですか!

 

 

「移動のしやすさ」っていうのもそこにつながってて、
海外旅行いくんならまだしも都道府県またがるだけでコミュニケート方法変えなきゃいけません、じゃあ萎えますよね!

 

 

東京―大阪で「電波がちがうのでスマホ買い替えてください」いわれてんのと一緒ですよ。
行く気なくなるでしょ!?

 

 

ある程度そろえるモンはそろえてもらわんと!

 

 

確かに今あげた例えは全部極端な事例で書いています。

 

 

だけど、
「何でもかんでもご自由に!!」
な教育スタンスでは、

最初はいいと思うんですよ。

 

 

いろんな価値観もった集団がそこかしこにできるから、「ああ、社会は多様化したな! 自由になったな!」って実感できると思うんです。

 

 

だけど時がたつにつれ
価値観は固定化するし
移動もなかなかしづらいとなると
各コミュニティがどんどん、それこそ田舎によくありがちな ‘ムラ社会’ 化すると思うんです。

 

 

そういう ‘封建的な’ 社会は、それはそれでいいところもあるんでしょうけど、
自由か不自由かでいえば圧倒的に不自由な要素増えるでしょうし、
結果として「自由」とか「自主性」とかを重んじよう! っていう、元々の教育の目的とは真逆な方向に進んでいくと思うんです!!

 

 

「自由」と「画一性」って、もちろん水と油な側面もあるけれども、一方でお互いがお互いを微妙に助け合ってるって側面もあるんじゃないでしょうか!!?

 

 

日本のこの「詰め込み式」で「画一的な」教育って、何かと批判されがちですよね。

 

 

だけど、幸福度はともかく、日本をここまでの国に育て上げた教育です!

 

 

全くの ‘黒’ ってわけではないはずです。

 

 

「よく考えたらそんなにおかしくないんじゃないの!?」ってね!

 

 

んん… そりゃ若干書きすぎました!

つまりね、

僕もやっぱり答えは1個じゃないと思うんです!

 

 

し、
自然科学ならともかく答えが1個だなんてありえない世界の話してるとも思うんです!

 

 

だけど、それっていうのは ‘答えが1個’ っていう勉強を、本当にやった人間が達せられる境地でもあると思うんです!!!

 

 

別の書き方すれば、

「正解は、いつも1つ!!!」っていう勉強に本気で取り組み、その意義とか意味の奥深いところを十分に理解したからこそ、「答えが1個」っていうものの限界を知れた人間と、
そういう思考なく単に画一的な教育の短所ばっかりに目をやってる人間とでは、
言ってる結論そのものは同じだったとしてもそこに至る説得力であったり話のおもしろみであったりが全然ちがうと思うんですね!!!

 

 

だからっていまさら「画一性の長所にも目を向けろ!!!」、なんてことは言う気はないですし、僕の意見に賛成しろとも思いませんが、
僕みたいにもの考える人間がいるっていうのを知っといてもらってもいいんじゃないかと思います。

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