平和学習の問題点

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平和学習の問題点

 

夏がやってきました!

 

夏休!海水浴!プール!

 

色々楽しみが多い季節です!

 

ですが夏は楽しめる行事ばかりではありません。

 

8月は原爆の日、終戦記念日と、平和への祈りを捧げる日があります。

 

平和学習を受けたり、平和について考えさせられるのも多くなるんじゃないでしょうか?

 

しかも、この記事は2025年に書いていますが、

2025年は太平洋戦争が終って80年の節目でもあります。

 

例年にも増して平和について考える機会が多いかもしれません。

 

この平和学習ですが、子供の頃は「そういうものか」ぐらいでしたが、

大人になると「ん!?」となるのもちょこちょこありまして…

 

今回は平和学習で改めて思う疑義を書きたく。

 

 

どこか他人事

 

平和学習を受ける人は、基本は戦の経験がない人です。

 

己に経験がないと、どうしても他人事になってしまいます。

 

加えて、或は学校で苛められてる、

或は部活が辛い、

或は単身で子供を育てて仕事と育児で頭いっぱい、

 

そういう人に戦の悲惨さを語っても

「不謹慎だが我々は我々で悲惨なんだ」と、どっかで思ってしまうでしょう。

 

そういう境遇じゃなかったとしても、

平和学習を受けた人の中から、総理、大臣、議員、防衛官僚、自衛官といった、戦するしないに直に関わる人がどれだけ出るでしょうか?

 

殆どは関係ない仕事につくでしょう。

 

普段からそういうのを生業にしてなければ、どうしても関心は薄れてしまいます。

 

 

費用対効果

 

「どこか他人事」章の続きになってしまいますが、

戦に直には関わらない多くの庶民にしてみれば、思う所があっても実質は何もできないですよね。

 

庶民が数万と反対しようが、大臣が数人動けば武力行使できてしまいます。

 

そうすると、何千何万という庶民に語るより、

大臣を数人説伏るのが実効性が高い。というのも1理です。

 

 

情緒に訴える

 

日本の平和教育はとかく情緒に訴えます。

 

「こんな悲惨で可哀想で酷いのはだめだよね!」

っていう。

 

そこは充実してますが、

他の要素は無視されがちだったり、寧ろ否定されがちです。

 

「米の核の傘に守って貰えた」説

とかね。

 

情緒、感情、良心…

そういったものに訴えるのも大切ですが、

平和ってそんなのだけで叶うぐらいには単純じゃないでしょう。

 

金正恩を原爆資料館に連れてって、こんこんと語ったとて、

北朝鮮は核開発をやめないでしょ。

 

平和を守るには、情緒だけではない、

核の傘とか、防衛力とか、軍事同盟とか、

必ずしも美しくはないかもしれない’現実’も見なきゃいけないんじゃないでしょうか!?

 

だけど、全員ではないですが、この辺を気持ちで受入れられない人が一定います。

 

そういうのを受入れぬまま意見を述べるのは自由ですし、

合理的な根拠があるなら相応の説得力もありますが、

気持ちで無視して理想だけ語っても、真にその理想が実現するかは怪しいですね。

 

 

希望と現実

 

ある語り手が報道機関の取材を受けていました。

 

その人は、幼い頃に機銃掃射にあったそうです。

(機銃掃射とは、戦闘機が機銃で地上を攻撃します)

 

その人曰く、「本当は米兵も殺したくなかったんだ」と。

 

「同じ人間なんだから」というのが根底にあるのでしょう。

 

ですが、そうでしょうか?

 

B-29に搭乗してた米兵が、ある報道機関の取材に応じてました。

 

その米兵曰く、「私は下に人がいるとは思わなかった」と。

 

米兵も個人差ありますから、中には「幾ら敵国とはいえ、殺すのは可哀想」と思う人もいたでしょう。

 

ですが多くはそんな慮ってらんなかったんじゃないでしょうか。

 

太平洋戦争末期、日本は特攻という戦術を編出しましたが、

多くの米兵にとって、「そんな戦法とるか!?」って、恐怖というか信じられない気持ちがあったんじゃないでしょうか!?

 

米兵からして信じられない戦法をとってくる、そんな日本人を’同じ人間’と思えたでしょうか!?

 

そこ迄ではなかったとしても、少年少女も軍需工場で働かされてましたから、

その人らに情けをかけたとて、その人らが作った武器が米兵や米兵の大切な人を殺します。

 

ですから、たとい女子供だったとしても、米兵にとっては殺すのを’可哀想’とは思えなかったんじゃないでしょうか!?

 

積極に殺したかったかもしれません。

 

勘違いしないでほしいのは、特攻や勤労動員を批判したいんじゃありません。

 

ですが、戦にも相手がいますから、

「きっと米兵もこう考えてくれる」という、己の価値観に基づいた希望で語っても、はたして真実が語られてるのかは疑問です。

 

 

太平洋戦争とそれ以外の差

 

「戦はしちゃいけない」とよくいいますが、

多くは太平洋戦争が念頭にあるでしょう。

 

ですが、日本人は、有史以来、戦を繰返しました。

 

弥生時代には既に高地性集落、環濠集落という、敵の侵入を阻む町造りがされました。

 

源平合戦や戦国時代とかもそう。

 

‘○○の戦い’とか言出せばきりないですし、

その度に多くの命が失われました。

 

ですが戦の悲惨さを伝える。とかっていうと、

実質、殆ど’太平洋戦争の’悲惨さを伝える。と化してませんか?

 

確かに太平洋戦争は悲惨な戦いでした。

 

じゃ、他の戦が悲惨じゃないのかというと、全然そうじゃないでしょ。

 

どの戦も凄惨なのは、頭では皆わかってるでしょう。

 

だけど戦国時代の○○の戦いは町起しで使われたり、軽快に語られる雰囲気も多分に感じます。

 

そこは問題視されてはいませんが、

同じノリで太平洋戦争を語れば袋叩きにあうでしょう。

 

太平洋戦争は凄惨’でなければならず’、

他の戦は軽快でもいい…

 

そういう雰囲気というか、暗黙の基準というか、が、よくよく考えると疑問ではあります。

 

「原爆で死ぬのは嫌だけど、剣で刺されるならまあいいや」とは、私はならないですよ。

 

どっちも嫌です。

 

そう考えると、太平洋戦争と他の戦で、

犠牲者の命の重みに差ができちゃってる気がするんですね。

 

のみならず、責任者にも差ができちゃってる気がします。

 

太平洋戦争の折に政府や軍の中枢にいた人は、戦犯として裁かれました。

 

彼らを悪者とする見解はそこそこ強いでしょう。

 

でも、昔の戦でも残酷な仕打してる人いっぱいいますよね。

例えば織田信長とか。

 

織田さんを英雄視してる人けっこういますが、

一揆を虐殺したり、戦争犯罪いっぱいしてますよね。

 

戦国の乱世に’戦争犯罪’とかいう制度はなかったし、

一揆も一揆で百姓が武装してたりで’無抵抗な市民’や’保護すべき文民’かというと、そこも微妙だったりしますが、

太平洋戦争のA級戦犯と、そんなに差をつけていいのかというと、よくよく考えたら怪しい気がするのは私だけでしょうか?

 

 

とはいえ

 

今まで散々、平和学習の疑義を書連ねましたが、

とはいえ「平和学習なんてやめちまえ!」って暴論は述べません。

 

寧ろ、こんなに疑義を書いても平和学習は大切と存じます。

 

平和学習がなければ、人々の平和への意識が今以上に薄れるのは確かです。

 

加速度的に平和への意識が失せるかもしれません。

 

だからこそ、今のままでいいのかな?と存じます。

 

私の疑義が必ずしも正しいとは存じませんが、

理想は高く、ですが現実も見据えた平和学習がこれからは必要かなと存じます。

 

色々な反対意見もあるでしょうが、ぜひ参考に賜れれば幸です。

 

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