努力はしたのに… ○がないと成功できない



 

「1次にはうかったのに… 最終でだめになっちゃった…」

「2年もやったのに… 全おちしちゃった…」

では、

公務員試験や、就活のしくじりを、1年目と2年目についてかきました。

 

個別の原因もあったでしょうし、

各記事で反省もしました。

 

ですが、共通の原因があるんじゃないかとなりましてね。

 

そこで、この共通の原因を反省したいです。

 

※公務員試験についての他はこちら!

国家一般職の下克上! 国家総合職に試し受験でうかってしまう逆転現象と、国家総合職の併願が民間になってしまう

意外と試験は簡単だけど… 国家総合職の真のむずさはうかってから!

国家総合職にうかりたいなら○○○にいけ! 官庁訪問で有利になるコツ

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公共の仕事につきたい! だけど公務員試験はうけたくない… 就活は民間、仕事は公共という団体

1次にはうかったのに… 最終でだめになっちゃった…

2年もやったのに… 全おちしちゃった…

 

 

 

2次からが…

 

1年目も、2年目も、

1次はそこそこ成果をだしています。

 

課題は2次からです。

 

国総だって、

1次はうかった。

 

でも2次からの対策がからっきしだった…

 

グレーゾーン就活も、エントリーシートは対策できた。

 

だけど面接はからっきしだった…

 

すぐそこの課題に夢中になりましたし、

そこはそうすべきです。

 

ですがそっからをみこした対策ができませんでした。

 

時間があれば、

「よっしゃ!1次はうかった。じゃあぼちぼち2次やるか!」

でもできたでしょうが、

そんなにあけてはくれませんからね。

 

計画だててやれなかったですし、

うまくいったら!?っていう計画をしていませんでした。

 

 

‘慢心’はあったけど、’自信’はなかった

 

とはいえ、やっぱり努力はしましたし、

1次にうかれば嬉しくもなります。

 

努力が報われたっていう自信にもなります。

 

ですが、この’自信’、

現在からすれば、’自信’ではなく、’慢心’だったんじゃないでしょうか!?

 

2次の対策がそんなにできていない…

 

なのに

「1次にうかったんだから、こっからもどうにかなるだろう」

となってしまった…

 

参議院みたいに、

「箔だけつけてやめる」みたいな、

むこうからすれば「なめてるのか!?」みたいにする…

 

こういうのは、’自信’からくる動きではないんじゃないでしょうか!?

 

自信っていうのは、もっと…

緊張せずに試験をうけたり、

物怖じせずに面接をうけたり、

そういうのじゃないでしょうか!?

 

1次にうかれば、そっからもうかる!

とするのは、’慢心’じゃないでしょうか!?

 

而も、「成果をだした」といっても、

努力だけでだしたかというと、

そこもどうでしょうね。

 

というのも、殊エントリーシートですが、

‘学歴フィルター’でうかったかもしれないからです。

 

「きちんとよんでくれていたんだろうな」っていう団体もございましたが、

「よんでいないだろ!?」ってなるのもございました。

 

とある会社なんかは、朝の5時に〆切だったんです。

 

で、私、朝の4時とかぐらいにだしたんです。

 

なのに、その日の15時ぐらいには

「うかりました!筆記試験にきて下さい!」

っていうメールがきました。

 

〆切間近にだす就活生が、とんでもなく少なかったのかもしれませんが、

常識ではありえないですよね。

 

寧ろ〆切間近にドカッとくるのがあるあるかと。

 

人事だって人数は限られていたでしょうから、

そんな状況でその日中にうからせるというのは、正攻法でやったなら粗できないでしょう。

 

常識からすると明らかに「えっ!?」ってなる合格もありましたから、

となるとやっぱり「学歴フィルターがあったのかな~」とはなります。

 

そうすると、フィルターに拾われる学歴は、努力によってえたかもしれませんが、

就活を頑張ったからではないですよね!?

 

なのに、「休学してまで頑張った努力が報われた!」っとは、なるべきじゃないですよね!?

 

でも、そうなりました。

 

うまくいった要因を正しく研究せず、「凡そ努力したから」とするのは、

‘自信’というより’慢心’かなあ、と。

 

 

成功をうける’器’

 

もしかしたら、どっかで、

「己なんて…」

となっていたのかもしれません。

 

そりゃあ、官僚になりたかったです。

 

グレーゾーン就活だって、やらかしたくてやっていたのではありません。

 

ですが、どこかで、

‘そこにいっていい’

とはなれていなかったのかもしれません。

 

普通の家にうまれて、

普通に進学しました。

 

高校は進学校でしたし、大学も同志社でしたから、

誰もがいける学校では、なかったかもしれません。

 

ですが、同志社から官僚っていうのも、いたにはいましたが稀でしたし、

グレーゾーンにいける同志社生も、そんなにはいなかったかと。

 

ですから、どっかで、

「成功していい」

とはなれていなかったのかもしれません。

 

寧ろ、

「どうせ己なんて…」

って、なっていたのかもしれません。

 

勉強したりしていた内は、そんなのどうとでもございませんでした。

 

追付け追越せに必死でしたから。

 

だけど、1次にうかって、いざ成功が現実になりだしたら、

「えっ!?己がそんなんになっていいの!?」

って、どっかでなったんでしょう。

 

でも、自己否定ってしんどいじゃないですか!?

 

まして努力してえた成果を、「己には…」っていうと、

そこ迄の努力を否定しかねません。

 

ですから、「己なんて…」っていうのと、うまく向合えませんでした。

 

でも努力して成果はえました。

 

ここを認めてあげないと…

ってなって、でてきたのが’慢心’だったのでしょう。

 

‘自信’をどうつけたらいいか不明。

 

でもそこ迄の努力と成果は否定したくない。

 

だから「努力すれば凡そできる!」と暗示をかけた。

 

そうすると、1次に受かってからのちぐはぐな動きが説明できます。

 

クリーニングにしても、

面接直前でだすんじゃなくて、もっと前からだそうって、冷静に判断できたでしょう。

 

参議院にしても、

もっとうまいやり方があったかもしれません。

 

少なくとも、「箔だけつけてやめた!」みたいに、

なめたとみられてもしょうがない振舞はしなかったでしょう。

 

えた成果をちゃんと扱えなかったのです。

 

制御できなかったのです。

 

だから、ですぎたり、ひきすぎたりしたのです。

 

宝籤に当っても幸せにはならない。とよくいわれますが、

にていますよね。

 

貧乏だったのに、いきなり3億がドカーンときても、

どう扱っていいか分りゃしないじゃないですか!?

 

普段から幾千万を扱っているのなら、3億がきたとしても、

「貯金に◯千万、投資に×千万、△百万は遊びでいいかな!?」

みたいにできるでしょう。

 

ですが、サラリーマンの給料ぐらいしか扱っていなければ、

勢いで会社をやめて、夜の街でドンチャンして、いつのまにか貯金もなくなる…

 

みたいになる。っていうのは、よくききますよね。

 

そういうのと、本質では一緒なのがおこっていたのではなかったのでしょうか!?

 

厄介なのは、宝籤とは異なり、努力はしたんですよね。

 

宝籤の努力って、買いにいくだけじゃないですか!?

 

その金を稼ぐのも努力かもしれませんが、

金を稼ぐのは、宝籤どうこうがなくとも、皆やりますからね。

 

ですが、国総にうかる努力であったり、就活偏差値のいい団体にうかる努力って、

並々ならないです。

 

努力はしたのに、

そうしてえたものを扱える’器’がなかったのです。

 

そこがここの根深い課題かなと。

 

‘器’っていうのは、人としての’器’ですよね。

 

誤らないでほしいのは、器がちっちゃいからといって、人としてだめ!とかではないです。

 

いいとか、よくないとか、ではなくって、

成功をきちんと扱える、

…

技術と度胸がまざったものなのかな~…

 

月給30万の会社員が、30万をもらったとしても、

焦ったりとかはしないですよね。

 

その会社員が、じゃあ「50万に昇給です!」っていわれると、

嬉しいでしょうが、まあ道を踏外したりはしないでしょうね。

 

そういうのが、ここでいう’器’です。

 

そこでの私には、その’器’はなかったのです。

 

‘自己肯定感が低い’って、よくききますね。

 

‘自己肯定感’とは!?にもよりますが、

重要な要素の1つに、成功を扱える’器’があるかどうかがあるのでしょう。

 

その器がなければ、どれだけ努力しても、

真に成功はできないのかもしれません。

 

じゃあどうすればその’器’とやらを手にいれられるのか?ときかれると、

そこは現在でも不明なままです…

 

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